【瓔珞・如懿伝】史実がもはや愛憎劇?!乾隆帝と3人の皇后歴史解説

♕中国ドラマ

みなさま おはようございます。

今年2021年のお正月は中国ドラマ「如懿伝(にょいでん)」について語っている汀羅です。中国ドラマ如懿伝ですが、瓔珞も見ていると作品により登場人物が悪だったり善だったりするので一体どっちなんだという疑問がわいてきました。

歴史は、実際はどうだったのか?🤔

これは中国の清朝時代の文献や歴史資料から学んで想像するしかないことですが、史実に基づき想像して脚色した結果が清装ドラマになっているわけですよね。だからドラマは全く違ってもいないし史実通りでもないという仕上がりです。

ドラマ瓔珞・如懿伝の題材として取り上げられている「乾隆帝と3人の皇后」について汀羅が勉強して学んだことをまとめたいと思います。歴史とドラマを見比べて自分で想像や解釈していくととても楽しいです!※汀羅の推測や個人的感想も含まれますのでご了承ください。それでは一緒に見ていきましょう~♥

№1♥清朝全盛期の皇帝「乾隆帝:愛新覚羅弘歴」

本名爱新觉罗·弘历(アイシンジュエルオ・ホンリィ)
時代清朝
年号乾隆(チェンロン)
出生地北京雍親王府もしくは避暑山庄
出生1711年9月25日
逝去1799年2月7日
逝去地北京紫禁城养心殿
陵墓清裕陵

〈参考〉百度百科:https://baike.baidu.com/item/%E7%88%B1%E6%96%B0%E8%A7%89%E7%BD%97%C2%B7%E5%BC%98%E5%8E%86/2161759?fromtitle=%E4%B9%BE%E9%9A%86%E5%B8%9D&fromid=613559&fr=aladdin

在位期間最長!イケメン・長寿・勤勉

ドラマ瓔珞でも如懿伝でも同じように描かれているのは乾隆帝を取り巻く後宮の争いです。乾隆帝は中国の歴史の中で一番皇帝としての在位期間が長く一番の長寿であった帝王です。若くして亡くなることが多い宮中の中で乾隆帝は健康で体力もある人物だったのではないかと思います。

乾隆帝は勤勉で真面目な性格で朝5時・6時から政務をこなしたそうでたくさんの功績を世に残しており立派な人物として描かれることが多いです。雍正帝の第四子として生まれ25歳で皇帝となり60年在位した後、約3年間「太上皇(タイシャンフアン)」として過ごし89歳で亡くなりました。

乾隆帝の后妃は全部で41人もいた

乾隆帝には41人の后妃がいたとされており、如懿伝では次から次へと貴妃が宮中に入るためドラマを見ていて若干混乱してました。ドラマの中で後宮の貴妃たちはみないろいろな事情を抱え、自分の一族の繁栄を背負い皇后や皇太后の地位を目指して争っていきます。

「清史稿」という文献の中に乾隆帝の容姿について書かれた記述があり現代的に解釈すると鼻が高くスタイルも良かったそうで、加えて高貴な身分の出身でありそれって今で言う「イケメンセレブ」ってことですよね?! 乾隆帝が男性として魅力的であったため争い事が発生というのもありそうです。

同じ皇后でありながら全く違う運命の3人

乾隆帝の41名の后妃の中で皇后となった3人の女性がいるのですが、この3人がドラマ瓔珞や如懿伝で描かれています。同じ皇后という地位なのですがそれぞれの出生、生き方、運命、愛され方が全く違っていて興味深いです。

史実そのものがもはや愛憎劇ドラマのように見える汀羅なのですが、この3人の女性が歴史上は一体どのような人物であったのかを調べてみたいと思いました。清朝時代の全盛期でありさらにこの愛憎劇ですからそらドラマの題材にもなるわ!という感じです。

№2♥尊敬され愛された「孝賢純皇后:富察氏」

本名沙济富察氏(シャージィフゥチャシ)
別名富察皇后・孝賢純皇后
時代清朝
出生地北直隶順天(現在の北京)
出生1712年3月28日
逝去1748年4月8日
寝宮長春宮
陵墓清裕陵

〈参考〉百度百科:https://baike.baidu.com/item/%E5%AD%9D%E8%B4%A4%E7%BA%AF%E7%9A%87%E5%90%8E/1350636

超名門出身でありながら質素を好んだ女性

富察皇后は15歳で紫禁城での妃選びで選出され結婚、乾隆帝の正室として妻となります。富察皇后の祖父や親戚などは朝廷で高位に就いており皇家との親密な関係がある超名門の家柄です。

富察皇后は超セレブお嬢様!なわけなんですが、金銀に興味がなく質素倹約を好む性格でした。ドラマ瓔珞でよく見る宮中の女性の髪飾り「绒花(ロンファー※ビロードで作った造花)」は質素を好んだ富察皇后が用いたものだそう。

〈参考〉こちらは瓔珞プロデューサー于正氏のインスタですがドラマ瓔珞では本物の绒花を使用していますので必見!

富察皇后は後宮の管理に尽力し努力を惜しまず、見た目も美しい女性であり乾隆帝から愛されます。なんだかもう完璧すぎるの?と思ってしまう汀羅ですが、イメージとしてはやはり瓔珞の富察皇后が近いです。名門の出身、質素、後宮の責任を負う富察皇后を乾隆帝は尊敬します。

次々と子が亡くなる不幸に襲われる

富察皇后と乾隆帝の関係はとても良く生まれた子は当然太子とされるはずなのですが、子どもは次々と亡くなります。1730年「永琏」が生まれますが9歳で亡くなりその後待望の「永琮」が生まれますが2歳で亡くなりました。

ふたりの男の子は病死で永琏は「傷寒(シャンハン)」という体が冷えることによって発熱する病気だとされているのですがなぜこんなに次々と不幸が襲ったのでしょうか。ちなみにこのふたりの前にも1728年に富察皇后は長女を出産していますが翌年亡くなっています。

ふたりの男の子の死は夫婦にかなりのショックを与え特に富察皇后には致命的で立ち直ることができず部屋に引きこもってしまいます。そこで乾隆帝は富察皇后や他の貴妃を連れて1ヶ月の船旅に出ることにします。

乾隆帝からガチで愛されていた富察皇后

紫禁城へ戻るその帰り道に富察皇后は病気で亡くなります。その頃は3月で気温は低く子どもを失いまだ2ヶ月しか経過していなかったため、気力も体力もなかったのではないかということですが乾隆帝が良かれと思って計画した旅行だったんですよね。

富察皇后は乾隆帝と同じ陵墓に埋葬され皇后の死後「長春宮」はそのまま記念館として残されました。また富察一族の大勢を昇進させたりと他にもいろいろな命を出し乾隆帝が本当に富察皇后を尊敬し愛していたことがわかります。

№3♥恨み恨まれた「皇后那拉氏:鳥拉那拉氏」

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本名那拉氏(ナァラーシ)
別名娴妃・那拉皇后・清高宗継皇后
時代清朝
出生1718年3月11日
逝去1766年8月19日
寝宮翊坤宮
陵墓裕陵妃园寝

〈参考〉百度百科:https://baike.baidu.com/item/%E7%9A%87%E5%90%8E%E9%82%A3%E6%8B%89%E6%B0%8F/51124514

最後にすべてをなくした悲しい皇后

鳥拉那拉(ウラナラ)は1734年に乾隆帝の側福晋(側室)として17歳で結婚します。乾隆帝からの寵愛を受け順調に册封(位を授かる)されていたのですが、ある事件をきっかけにすべての位を剥奪され最終的には皇帝と一緒に墓に入ることも許されなかった皇后です。

富察皇后は若くして病気で亡くなり皇太后は焦ります。後宮の貴妃の中から新しい皇后を選出しなければならず皇太后が選んだのがこの鳥拉那拉です。鳥拉那拉は娴妃、娴貴妃、皇貴妃と册封されており出産もし乾隆帝との関係は良く当初は順調に暮らしていました。

自ら髪を切ったのは本当の話

ドラマ如懿伝では皇帝がたくさんの貴妃やお供を連れて船旅に出る様子が描かれているんですが、実際に乾隆帝は何度も旅行に出かけており乾隆三十年(1765年)4度目の「南巡(杭州旅行)」で乾隆帝が「鳥拉那拉は頭がおかしくなった」と言ったと記されています。

鳥拉那拉はこの旅行中に自ら髪を切るのですが、このシーンはドラマでも映画でもよく描かれる場面です。髪を切ったのは本当の話で文献にもちゃんと書かれて遺っています!満州族の古い風習で女性が髪を切るのは夫が死んだ場合のみでこの時髪を切るということは皇帝を呪った行為です。

鳥拉那拉のブチギレ理由は何か?

①魏佳氏が皇貴妃となることにブチギレ説

鳥拉那拉はなぜ自ら髪を切ったのでしょうか。後宮では皇后が存在している場合には「皇貴妃(※皇后の次に位が高く実質皇后のような地位)」という称号は他の貴妃に与えられないとされていますが、この時後に皇后となる「魏佳氏」を皇貴妃にするという話があがり鳥拉那拉は大反対します。

が、乾隆帝と皇太后は鳥拉那拉の意見を聞き入れず魏佳氏を皇貴妃にするとしたため鳥拉那拉は髪を切って抗議したという説です。

②魏佳氏と乾隆帝が一緒に食事したことにブチギレ説

鳥拉那拉は杭州旅行中に髪を切ったのですが、その日の夕食の記録で乾隆帝は魏佳氏と食事をしたという記録があります。今までは皇后の鳥拉那拉であったのに乾隆帝は魏佳氏を指名し乾隆帝の気持ちが鳥拉那拉から離れていることがわかります。

その食事を準備している間に鳥拉那拉が髪を切ったことが発見され乾隆帝が魏佳氏を寵愛していることに我慢ならなかった説もありますが、どちらにしても乾隆帝が魏佳氏を愛し鳥拉那拉から離れていったことは事実のようです。

死んでも許されなかった鳥拉那拉

髪を切った行為に当然皇帝もブチギレます。鳥拉那拉は杭州から船で紫禁城へ戻され、翊坤宮から出禁になり人と会うことが許されない状態=冷宮に入れられ翌年に亡くなります。

鳥拉那拉は皇后であったので数十名の侍女を抱えていたのですが、位が剥奪され庶民となったため規則により2名の侍女のみとなり孤独で悲惨な最後です。皇帝や皇后など身分の高い皇族は高価な棺に埋葬されるのですが鳥拉那拉の棺は粗末な杉の木でした。

また乾隆帝の陵墓「清裕陵」には富察皇后とこれからご紹介する3番目の皇后「孝儀純皇后」のふたりの皇后と3名の皇貴妃が埋葬されており、鳥拉那拉は乾隆帝とは別のお墓に埋葬されています。そしてさらに不幸なのは息子である十二阿哥「永璂」は太子になれず位を授かることもなく25歳で亡くなりました。

№3♥めっちゃ寵愛された「孝儀純皇后:魏佳氏」

本名魏佳氏(ウェイジァーシ)
別名孝仪皇后・令懿皇贵妃・令妃
時代清朝
出身地北京
出生1727年10月23日
逝去1775年2月28日
寝宮儲秀宮
陵墓清裕陵

〈参考〉百度百科:https://baike.baidu.com/item/%E5%AD%9D%E4%BB%AA%E7%BA%AF%E7%9A%87%E5%90%8E

10年寵愛され続け6人の子を産む

最後にご紹介する皇后は瓔珞です!史実にはドラマのような復讐劇はありませんがかなりの強烈キャラであったことは事実であると汀羅は推測しています。乾隆帝より16歳年下と若く、先の皇后2人は超名門の出身ですがこの魏佳氏は「包む衣(バオイー)」という召使いや下僕のような身分の低い出身です。

乾隆帝から約10年に渡って寵愛され4人の男子と2人の女子、合計6人の子どもを出産しています。身分の低い出身であるにも関わらず皇后にまで上り詰めたのは事実であり勇敢で挑戦的な性格だったとも言われています。じゃなきゃ無理じゃない?

優しく、美しく、可愛い魏佳氏

乾隆帝がこの魏佳氏について述べた文献には優しく美しい容姿であったとされています。しかもかなり年若くてそりゃ好きになっちゃうわ!って感じだったんでしょうか。魏佳氏は貴人、令嫔、令妃、令貴妃、皇貴妃とまたたく間に位が上がっていきます。

魏佳氏は乾隆三十年(1765年)の南巡で「皇貴妃」の位を授かります。この南巡が鳥拉那拉が髪を切る事件が起こった杭州旅行です。皇貴妃は皇后に次ぐ高い地位でまだ皇后である鳥拉那拉が存在しているため通常はありえない大出世です。

後宮で全面的に勝利するという奇跡

魏佳氏は後宮という世界で全面的に勝利したと言っても良いぐらい成功した人物だと思います。身分の低い出身、年若いにも関わらず皇貴妃(※実質皇后と同等の地位)になり息子の十五子「永琰」を太子にすることにも成功します。

魏佳氏は49歳で亡くなり富察皇后と乾隆帝と一緒に清裕陵へ埋葬されました。すべては奇跡のように思えるほどの成功じゃないですか?それはやはり彼女が本当に瓔珞のように賢くて強かったからなのでしょうか。

♥まとめ

実際に清朝の後宮で貴妃たちの骨肉の争いがあったのかどうかは知る由もないのですが、史実を見ていると歴史がもはやドラマのように壮絶な愛憎劇に思えてならないです。乾隆帝はたくさんの文献を編集し遺している功績もあり今こうして歴史を学ぶことが出来るのも乾隆帝のおかげかもしれません。

3人の皇后は瓔珞でも如懿伝でも描かれているのですが歴史を調べるだけでもとても興味深い内容なので、ドラマとして作品にしたい、ドラマが見たいという我々の気持ちは当然です!

汀羅は鳥拉那拉が好きです。自ら髪を切ったその決断や悲しい結末がなんだかとても共感できるんですよね。最初は良い夫婦だったのに悲しい結末ですが髪を切るぐらいもう限界、すべてを失う覚悟や強い意思があったのだと思います。

逆に共感できなかったのは魏佳氏で「いや~汀羅はムリだわ~」って言葉しかないですね。ご本人の努力も力ももちろん相当おありだったのだと思いますがものすごい運もお持ちだったのですよね、きっと。

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汀羅♥TAYLOR

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東京都出身。中国語と中国ドラマを愛する自力バイリンガル女子。華流ドラマ歴10年以上。中国語検定2級とHSK5級を取得しています。お仕事で中国・香港・韓国滞在...

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