【瓔珞(エイラク)】尔晴の息子「福康安」の父親は誰?傅恒の弟「傅謙」だった?
みなさま こんにちは。
ドラマを見ている我々に大きな謎を残していく于正ドラマ「瓔珞(エイラク)」なんですが結局の所真相は「ご想像におまかせします」的な感じなのでこれが真実です!とは誰も言えないという内容に仕上がっています。
・瓔珞の姉の死の真相
・春望の出生の真相
・尔晴の息子の真相
謎を抱くので何度も繰り返しドラマを見てしまう。これはやはり于正の策略でしょうか。我々はドラマ「延禧攻略(※瓔珞の原題)」を見せられているわけですがいつの間にか「于正攻略」を見せられているというわけですよ!「攻略(ゴンルエ)」は中国語で策略や計略を意味しています。
ということで本日はドラマ瓔珞の謎のひとつである「喜塔腊·尔晴」の息子の父親は一体誰なのか?傅恒?乾隆帝?それとも?ということでまとめていきたいと思います。汀羅の個人的考察や推測が含まれます。それでは一緒に見ていきましょう~♥
♥傅恒を愛するがゆえに黒化する「尔晴」
傅恒に復讐するため乾隆帝の子どもを妊娠したと告げる
富察皇后の侍女として登場する「尔晴(アルチン)」ですが後半はもうアンタどんだけ悪いの?(笑)てぐらい黒化する本当に面白い役で汀羅は大好きでしたが黒化の原因はイケメン「富察傅恒」です。ドラマ瓔珞に登場する女子はみんな傅恒が好きなんですよね!
傅恒は瓔珞を守るために仕方なく尔晴と結婚します。ですが傅恒は瓔珞を愛しているので全く尔晴に心を開かず、嫉妬に狂っていく尔晴を傅恒は軽蔑していくようになります。それでますます尔晴はキィイイイイーーーー怒!💔💥ってなっていき傅恒を憎み復讐しようとします。
そこで彼女は大それた計画を立て乾隆帝の子を妊娠したと富恒に伝えます。傅恒はもちろん激怒しその子どもを愛することはできませんが、子どもに罪はなく少しづつ優しい態度になっていきます。この子ども「福康安(フーカンアン)」は本当に乾隆帝と尔晴の子なのでしょうか?
父親その1♥尔晴の夫である富察傅恒?
まずこれはありえないでしょう!傅恒の尔晴嫌いはドラマでかなり明らかな事実です。嫌いというよりもう傅恒はブッ殺してやりたいぐらい尔晴を嫌っています。結婚しても寝室は別々で子どもができるわけはないです。なのでこの説はなしですね。瓔珞を心から愛していますから!
父親その2♥一晩を共にした?乾隆帝?
ドラマでは尔晴は乾隆帝が酔って寝ている寝室へ忍び込み事が起きたようなシーンがあります。この事実は明るみとなり皇后も皇帝本人も知ることとなるのですが尔晴は妊娠した時に傅恒に「この子の姓は愛新覚羅よ!(※皇帝の名字)」と告げています。
ドラマの中ではこの件について肯定も否定もなくこれが事実だとして息子「福康安」は乾隆帝と尔晴の子だけれど傅恒と尔晴の子として育てられているという体で進んでいきます。傅恒は事実を隠し自分の子として福康安に接しており見ている我々もそう思っているわけです。
父親その3♥傅恒の弟「傅謙」が最も有力?
瓔珞続編「金枝玉葉」第5話で暴露される
ドラマ瓔珞には続編とされる全6話のドラマ「金枝玉葉」があります。この第5話でほぼ皇后と同じ位置にまで上り詰めた瓔珞が福康安の出生について暴いています。瓔珞の娘「昭華」は福康安に騙されて連れ出された後に行方不明となり大事となります。
福康安は母である尔晴を瓔珞に殺されたので瓔珞を恨み復讐したいと思っています。また傅恒の異母兄弟、弟である「富察傅謙(フーチェン)」も尔晴が好きだったので瓔珞を恨んでおり復讐するように福康安を焚き付けます。
傅謙は本編でも少し登場しますがずっと尔晴が好きなんですよね!尔晴の絵を書いたりしてひっそりと尔晴を想っているのがわかるのですが尔晴は兄嫁なので当然報われない恋でした。
尔晴がいないので真実はやっぱり闇?
ドラマ金枝玉葉の中で娘を傷つけられブチギレした瓔珞が傅謙と福康安の前で尔晴が福康安を乾隆帝の息子だと言った事、しかし実は尔晴と傅謙の子だったと暴露します。福康安も傅謙もこの暴露にかなり動揺しますが傅謙は福康安の父であることを否定しません。
尔晴はもう死んでしまっているため真実は調べようがないと瓔珞もこの場面で語っているのですが「何年考えてもわからなかったのだけど、突然わかったのよ。」とこの事を暴露しています。この敵の追い詰め方がまさに瓔珞!で、瓔珞本人の言葉なので間違いはないのではないかと思っています。
♥まとめ
ということで尔晴の息子「福康安」は傅恒の弟である傅謙が父親であったという説が汀羅は有力であるという結論に達したのですが、でももっと裏を考えるとやっぱり乾隆帝の子ども?とか思ってしまう部分もあるんですよね。
だって尔晴は死んでしまっていて尔晴と傅謙の間に何があったのかは本人しかわからないと思うんですよ。しかしながら瓔珞が暴露したときの傅謙の態度は父親と認めたと言っても良いと思っています。なのでやはり傅謙が父親であったということで締めくくってみます!