中国ドラマ【如懿伝(にょいでん)】如懿は史実でも髪を切った?自ら髪を切ったのはなぜ?
みなさま こんにちは。
数回目の緊急事態宣言を受けた東京は新宿伊勢丹もサブナードもシャッターでもはや恐ろしいです。みなさまいかがお過ごしでしょうか。汀羅はここ数日ずっと考えていました。
如懿(娴妃)はなぜ自ら髪を切ったのか?💇♀️💔
南巡(※乾隆帝の船旅)の最中に娴妃が自ら髪を切った事件は清朝の歴史書にも遺されている事件です。ですがなぜ髪を切ったのかという明確な理由は記されていないため、それが現代の映画やドラマのテーマともなっています。汀羅独自調べ&独自考察で娴妃の断髪事件について語っていきたいと思います!
♥船旅の最中に自ら髪を切ったのはなぜ?
順調に見えた如懿の後宮人生が一変する大事件
ドラマ「如懿伝(にょいでん)」の如懿と歴史上の人物「皇后那拉氏(娴妃)」はとても重なります。乾隆帝の妻として子を産み後宮を管理していきます。如懿は側福晋(※側室)ですが順調に冊封され富察皇后亡き後、皇后に抜擢されます。この時期の娴妃はとても順調に人生を歩んでいるようです。
ですが南巡で娴妃は自ら髪を切り乾隆帝の命により紫禁城へ戻され、その後4つの階級(※娴妃、娴貴妃、皇貴妃、皇后)を剥奪、身の回りの女官や宦官も減らされ皇后として賜ったお宝も没収。皇后としての待遇は無くなります。娴妃は亡くなり乾隆帝とは別の陵墓で粗末な杉の木の棺に埋葬されました。
歴史書に記された娴妃の断髪事件一部始終
乾隆三十年正月初八日、娴妃は乾隆帝の4度目の南巡に一緒に出発します。その旅の途中二月初十日に乾隆帝は娴妃の誕生日を祝います。南巡出発前にも乾隆帝が娴妃にお誕生日プレゼントを渡したという記述もあることから、ふたりの関係は悪くなく南巡の最初は問題が無かったことがわかります。
ですが二月十八日の杭州での夜、乾隆帝が「娴妃は病気になったので紫禁城へ戻し、誰にも会わせないように」と福康安に命じ娴妃は先に紫禁城へ帰されます。皇帝の食事を記した歴史書「乾隆三十年節次照常膳食檔」(※清朝時代内務府御茶膳房の記録)にはこの日の朝、乾隆帝はいつも通り娴妃と食事をしたことが記されています。
〈参考〉百度百科:https://baike.baidu.com/item/%E7%9A%87%E5%90%8E%E9%82%A3%E6%8B%89%E6%B0%8F/51124514?fromtitle=%E7%9A%87%E5%90%8E%E8%BE%89%E5%8F%91%E9%82%A3%E6%8B%89%E6%B0%8F&fromid=22792321
突然何らかの理由で自ら髪を切った娴妃
通常であれば夕食も皇后(娴妃)の名があるはずですが、記されている后妃の名前は「令貴妃魏佳(※エイラク・えんえん)」「慶妃陸氏」「容嫔和卓氏」だけで皇后の名はありません。朝は通常だったことから夜になり何らかの理由で突然娴妃が髪を切り、皇帝の怒りを買って紫禁城へ戻されたと想像します。
娴妃は紫禁城に戻された後、約30年かかって紫禁城の後宮で授かった4つの階級を剥奪されます。皇后としての待遇も無くなり侍女はわずかに2名となります。これは乾隆帝が命じたことであり、南巡の断髪事件をきっかけに娴妃は乾隆帝の信頼や寵愛をなくします。
♥如懿がブチギレした?その理由は?
明確な理由の記載が無いため全ては想像
娴妃が自ら髪を切った理由は歴史書の中で明確な記述がありません。「乾隆帝が娴妃は病気になった、頭がおかしくなったと言った」のは史実に遺された事実のようです。中国でも様々な見解があります。娴妃は当時48歳でした。娴妃は1718年生まれ、令妃は1727年生まれで約10歳の年の差があります。
- 令妃を寵愛していたことに嫉妬
- 乾隆帝が若い女子に惹かれて娴妃に対する愛がなくなった
- 令妃が「皇貴妃」に冊封されることに抗議
- 娴妃が嫉妬深くカッとなる性格だった
などが理由として中国ネットで出ています。いろいろな見解がありますが、トータルして出てくるのはやはり「令妃」の存在なんじゃないでしょうか。娴妃が髪を切ったその夜、乾隆帝は令妃と一緒に食事をしており髪を切った娴妃をひとり紫禁城へ返しました。令妃は乾隆帝後期にぶっちぎりで愛された后妃です。考えれば考えるほどドラマと史実が複雑に絡みます。
娴妃は乾隆帝と皇太后の前で自ら髪を切った
清朝の歴史書「清史記載」には乾隆30年の南巡の杭州で娴妃は皇帝と皇太后の前で髪の毛を切り、その後紫禁城へ先に帰されたことが記されています。皇太后もいることから後宮の今後の運営などで揉めた可能性あるのでは?とも推測され、この時寵愛されていた令妃が「皇貴妃(※実質皇后と同等)」になる話が持ち上がり娴妃が抗議したという説もあります。
〈参考〉百度百科:https://baike.baidu.com/tashuo/browse/content?id=9167c87c2cdbf1c2f4d1c17e&lemmaId=6396146&fromLemmaModule=pcBottom
髪を切る=壮絶な絶望感だった?
如懿は皇族と深い関係のある高貴な身分の生まれであり、嫉妬深いカッとなるような性格ではないと汀羅は思います。個人的見解ですがやはりドラマ「如懿伝」の如懿と重なるんですよ。ふたりの間に起こったいろいろな出来事によって如懿自ら徐々に乾隆帝から気持ちは離れていったのではないでしょうか。
如懿伝も瓔珞も最終的に娴妃は乾隆帝に絶望している💔
娴妃が呪われた行為「自ら髪を切る」ということをしたのは(※満州族の風習で皇帝が亡くなった場合に髪を切る。が、如懿は生きている夫の前で自ら髪を切ってしまったわけです!)心の中に耐えかねるものがあったからなんじゃないでしょうか。それは壮絶な絶望感であったと推測できます。
♥まとめ
娴妃が自ら髪を切ったのは史実に遺されている歴史事件です。ドラマ同様に乾隆帝の船旅「南巡」の最中に起こり娴妃は先に紫禁城へ戻されます。その後階級や皇后としての待遇を剥奪され娴妃は亡くなります。ドラマ如懿伝では乾隆帝と相思相愛として如懿の意向を組んで庶民として埋葬されます。ですが実際はガチで乾隆帝の怒りを買って死ぬまで許されなかったのかもしれません。